長洲町の観光・史跡案内

長洲町には沢山の名所が存在します。例えば、柳川藩主「立花宗茂」の夫人・闇千代の墓が、長洲町にあります。柳川といえば福岡県柳川市にあたり、立花宗茂といえば「御花」で有名ですが、何故、夫人の墓が長洲にあるのか・・・等、色々な奥深いミステリーが、長洲町には存在します。
長洲のミステリーを自分で探す旅も楽しいですよ!

金魚と鯉の郷広場

金魚の館や3つの広大な芝生広場、錦鯉が優雅に泳ぐ修景池、大型遊具や水遊びができるせせらぎ川などがある自然公園です。
「火の国長洲金魚まつり(5月)」、「のしこら祭(8月)」、「金魚と鯉の郷まつり(10月)」をはじめ、年間を通して様々なイベントが行われます。

開園時間:9:00~17:00 ※入場料無料
休業日:12/28~1/3 ※その他臨時休館有
交通:長洲駅から徒歩で15分
開園時間:夏 8:30~19:00 入場は18:30まで
所在地:〒869-0123 熊本県玉名郡長洲町長洲3150
電話:0968-78-3866

みなと憩い広場

長洲町の海の玄関口である長洲港の近くにある広場。キラキラと輝く有明海に浮かぶ島原半島や行きかう船舶を眺めながら、ゆっくりとした時間を過ごすことができます。
夕日が有明海の水面に見事に映える夕方の絶景もおすすめです。

交通:長洲駅から車で10分
所在地:〒869-0123 熊本県玉名郡長洲町長洲3334

四王子神社

日本武尊を祭神としている。毎年1月第3日曜日に行われる神事「破魔弓祭(的ばかい)」は、重さ約6kgのワラと麻で編まれた「的」を、締め込み姿の男たちが奪い合う勇壮果敢な祭り。マムシよけのお守も有名。

所在地:〒869-0123 熊本県玉名郡長洲町長洲1273-3
電話:0968-78-0426

名石神社

古事記によれば、景行天皇を日向国から追ってきた妃の御刀媛(みはかしひめ)が、入水して石になったという。その石が祀られている神社。例祭10月12日。

所在地:〒869-0123 熊本県玉名郡長洲町上沖洲298
電話:0968-78-0037

ぼたもちさん(立花宗茂公夫人の墓碑)

「ぼたもちさん」は長洲町にある立花誾千代の墓碑です。この名称は墓石の形状がぼたもち(おはぎ)に似ていることからきています。立花宗茂が関ケ原の合戦で西軍に味方して敗れた後、誾千代は他の家臣ともども加藤清正のもとに身をよせます。清正が書いた書状の内容から清正が誾千代に「兵糧」を送っていたことが分かります。このころ誾千代は肥後領内玉名郡腹赤村に居住していました。しかし、関ケ原の合戦から2年後の慶長7(1602)年10月17日、同村において死去。住居後に墓碑が建てられ「ぼたもちさん」として現在も祀られています。

梅田天満宮の玉藤群

藤は他の樹木と異なり年輪を有しないため正確な樹齢は測定できませんが、宝暦6(1756)年天満宮社殿改築により植樹されたものと言われており、樹齢200年に以上を経た藤の木と推定されます。花状は下垂尺余に及び、先端に玉(幼花)を付けるため玉藤と呼ばれています。

六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)

この石幢は江戸時代の中頃享保8(1723)年庄屋の久兵衛らによって建てられたものです。石幢は普通7種類の石が積んでありますが、この石幢は笠とがん部(六地蔵が彫ってあるところ)だけが残り、なくなった部分には他の石が積んであります。六地蔵とは道端や寺院の入口・墓地などに建てられ道行く人達が親しく拝んだものです。

古墳改葬之碑

寛政3(1791)年10月から島原半島で地震が群発するようになり、翌年4月1日の大地震で眉山が崩れ大量の岩石や土砂が有明海に流れ込み大津波を起こしました。そのため有明海沿岸には津波が押し寄せ、当時の長洲ではおよそ600名の方がお亡くなりになりました。  その時お亡くなりになられた方々は長洲小学校付近の寺の墓地に埋葬されましたが、明治24年、福間謙蔵さんや地域の方々のご尽力により新山墓地に移され、昭和14年には磯田大吉さん夫婦のご尽力でこの碑が建てられました。

放牛地蔵

この地蔵は、熊本の僧である放牛が建立したものです。放牛は父の死が自分の責任であるとして、その罪を懺悔するとともに、人々に心の安らぎを与えるために、享保7(1722)年から10年間にわたり熊本県内各地に地蔵を建立しました。その数は百余体を数え、その76体目がこの地蔵で享保15(1730)年4月12日に建立されました。

長洲遭難の碑

明治26年10月13日、少し雨や風がありましたが、四王子神社の祭の前々日でもあったため、190艘・380名余りの漁師が漬けアミにするアミ(小型のエビ)を獲りに出漁しました。ところが14日の真夜中(午前1時頃)風が急に強まり暴風雨となり、ほとんどの船が沈没し助かったのはわずか50名余りでした。  この碑には、この悲しい出来事を後世に伝えるためと死者の冥福を祈るため、遭難した320名の氏名が刻んであります。また、上天草市大矢野町の串地区と白涛地区には漂着した長洲漁民の遺体を地元の方たちが丁寧に葬ってくださった碑や墓があります。
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